東北周遊2025・春 DAY:2 青函連絡船メモリアルシップ「八甲田丸」を探訪!
*この記事は、2025年5月3日~6日にかけて巡った、東北周遊ツーリングツーリングのレポートです。
2025年5月4日、秋田県は雨、青森県は午後から晴れ。
この日は当初の予定では、宿泊した由利本荘市のルートインを出発して、
秋田県の内陸部を旅してから青森市へと向かうつもりでいたのですが。
残念ながら、秋田県は「ほぼ一日雨」の予報になったので、
秋田県内での予定をすべてキャンセルして一気に青森まで走ることにしましたよ。
ちなみに由利本荘のルートインから、青森中央インターのルートインまでは、
秋田道と東北道を使って約236km、3時間30分の距離です。
高速道路を走りながら何回も雨に降られて、
宿泊予定のルートイン青森中央インターさんに到着したのは正午過ぎ。
当然、チェックインの時間には早すぎるのですが・・・
フロントの方に事情を説明して、バイクと荷物を預かってもらえることになりました♪
では、ここからタクシーで市内の観光に行って来ま~す!(^-^*)
(こんな風に柔軟に予定を変えられるのは、一人旅ならではですねw)
そうしてタクシーに揺られながら、今回の旅で「大本命」と位置づけていた、
青函連絡船メモリアルシップ「八甲田丸」に到着です!
さて、見学チケットを買ったところで時刻は午後1時過ぎ。
すると、このあと1時30分から、
元・機関長による船内のガイドツアーがあるって言うじゃないですか~!イイネ♪d('∀'o)
実際にこの船に乗って何十年も仕事をされていた方の話しなんて、
聞かなくちゃ絶対にもったいない!Ψ(`∀´)Ψ
すぐさまガイドツアーに申し込んだら、
なんとこの日の参加者は3人だけ!(゚Д゚)エッ?
ほとんど「貸し切り」状態で、いろいろ聞けるなんて嬉しすぎる!
ウヒョ━━━━ヽ(゚Д゚)ノ━━━━!!!
ということで、まずは船内の客室エリアへ移動します。
ここでは、青函連絡船が最も活躍していた昭和30年代の青森市と、
青函連絡船に関わって生活していた人々の様子を集めた資料が展示されていて、
さながら歴史民俗資料館みたいだな~(^-^*)
青函連絡船の主たる目的は、もちろん人と貨物列車を運ぶことでしたが、
連絡船を使って行商をしている人たちもたくさんいたのですね。
例えば、今でこそ北海道でも美味しいお米が採れますが、当時の北海道では稲作はできなかった。
だから、本州で買い付けたお米を背負って船に乗り、北海道へ渡れば高値で売れたし、
帰りは北海道のニシンやらサケやらの海産物や農産物を仕入れて帰れば、
それだけで充分に商売になっていたそうですよ~。
ちなみに余談ですが、わずかな船の停泊時間にそうした行商人も一般の乗船客も、
一気に荷物の積み降ろしをする必要があるわけですよね。
そうした中から、そのような「旅人の手伝い」を仕事にする人たちも現れるようになり、
彼らが赤い帽子をかぶっていたから「赤帽さん」と呼ばれるようになって・・・
なんと、それが運送会社としての「赤帽」の始まりなんだとか!(*・∀・*)ヘー
そんなところにも、今に続く物語があったんですね~。
さて、当時は青森と函館を結ぶ「物流の大動脈」だった、青函連絡船。
ボクはここでお話を聴くまで知らなかったのですが、
最盛期にはなんと、1日21往復もの船が運航されていたのだとか!∑(゚Д゚)スッ、スゲー!!
ボクの勝手な推測で、1日に4~5往復くらいしていた程度かな?なんて思ってましたが、
いやはやとんでもない!!w(*゚ロ゚*)w
ほぼ1時間に1本、夜中でも多少の悪天候でも関係なく運航されていたと言うんですから、
本当にすごい!としか言いようがないですよね~( *´艸`)
ということで、船のブリッジに続いて案内されたのは、ブリッジの上にあるデッキです。
ここには船の運航には欠かせない、「羅針盤」が置かれていましたよ!∑(*゚艸゚*)オオッ!!
ボクは本物を見るのは初めてでしたけど、
要は、水に浮かべた円盤状の磁石が中に入っていて、それが常に北を指しているから、
方角と船首の向きを確認しつつ船を進めることができるんですね。
そして羅針盤全体も上下・左右の軸で「浮いてる状態」になっているから、
どれだけ船が揺れても方角を間違うことがないんだとか!
この羅針盤を読むことが航海士の勉強の第一歩だそうで、
GPSが進化した現代の船にも、ちゃんと羅針盤は積まれているそうですよ。
続いてご紹介するのは、連絡船と地上とを接続する「可動橋」についてです。
実は、今回の訪問でボクが一番知りたかったことが、これでした!( *'д')bイイ!!
だってねぇ、考えてもみてくださいよ??
「船に列車を積み降ろしする」って言葉では簡単に言えても、
船と地上を結ぶ線路が仮に5センチもズレたら、即・脱線!ですからね~?( ;^ω^)
そもそも、波の影響で常に揺れ続ける船。
海面の高さも満潮・干潮で違ってくるし、
積み荷の重さや偏りで、喫水線の高さも傾きも違ってくるわけですよね。
いったいそれらの条件をどのように整えて、列車の出し入れをしていたのか?
(この写真は船の見学後に、外で保存されている可動橋から撮影しました)
それで、機関長さんに教えてもらった仕組みですけど・・・
まず、船のほうには巨大な水のタンクが左右に分けて積まれていて、
その水を増減させることで喫水線の高さや傾きの調節ができたとのこと。
一方の地上側は、基本の橋桁と、船に架ける「補助桁」とを別々に操作できるようにしてあって、
細かく分割された構造の補助桁が、船の動きにある程度追従して、
レールの揺れやねじれを緩和できるような工夫がされていたそうです。
これらの装置は、青函連絡船の運航が始まってから何世代にもわたって改良が続けられて、
できるだけ素早く・安全に、列車の出し入れをする方法が追求されていたんですね。
(線内に飾られていたタペストリー。右が船長さん、左が機関長さんです)
そして、機関長さんが強調されておられたのは、
「青函連絡船は国鉄が運航していた」という点でした。
戦前・戦後の日本にとって、北海道の石炭やニシンなどは「戦略物資」とでも言いますか、
国鉄=国が全面的に運航に関わるほどに連絡船は重要視されていた。
だから技術も設備も、その時の最新のものが惜しげも無く投入されていたんだと、
誇らしげに語ってくださいましたよ~(^-^*)
そして続いては、列車を載せていたデッキに到着です。
現在、船の中にはDD16型ディーゼル機関車やキハ82型の特急列車などが展示されていますが、
これは言わばサービス展示?(笑)
当時は基本的に貨物列車しか積まなかったそうですよ。
そしてここでの「見どころ」は、この車両を固定するための金具です!
この金具は、通常時は1台の車両に前後2本ずつ・計4本が使われていましたが、
悪天候で波が高くなるのに合わせて6本、8本と増やしていって、列車の転倒を防いだそうです。
ちなみに、この作業をするための若い衆が50人くらい専属で配備されていて、
列車が入ると一斉に群がって作業する姿は壮観だったとおっしゃっていました。
そしてお待ちかね!船の心臓部たるエンジンルーム!
この部屋に入った瞬間、思わず「おおっ!すっげー!」と声が出ちゃいました!( *´艸`)プププ
V型16気筒・1600馬力のディーゼルエンジンが8機で、合計12800馬力!
ズラッと並んだ姿はまさに圧巻!∑(゚Д゚)スッ、スゲー!!
青函連絡船の特徴として、列車を載せるデッキがある構造上、
その分エンジンルームに使える空間は狭くなりますから・・・
大型のエンジンと同等の出力を8機の中型エンジンに分割して、動力を作り出す方式が採用されたんですね。
そして、右舷と左舷に1本ずつあるプロペラに対して4機のエンジンを1組にして配置して、
「流体減速装置(フルカンギヤー)」という仕組みで動力を伝達していました。
これは、向かい合った機関につながっている羽根車で油の流れを起こして動力を伝える仕組みだそうで、
原理的には、現代の自動車で多く使われている変速装置=トルクコンバーターと同じ構造なんだとか!
こんなところにも、当時の最先端技術が使われていたんですね~!ヽ(´▽`)ノ
しかしながら、船の燃費はというと・・・?
1往復の航海で、200リットルのドラム缶換算で30本以上使ってた!と言うんですから、
とんでもない金食い虫!(笑)
ま、「国鉄だから」運行できていたんだろうな・・・∑(ノ∀`*)アチャー
そんなこんなで、一通りのガイドツアーが終わってチケット販売まで戻って来たら、
なんと時間は午後3時!
みっちり1時間30分もお話ししてもらっちゃいましたよ!(・∀・)ニヤニヤ
でも、ボクにとっては楽しすぎてあっという間の時間でしたけどね~(笑)
以上、かなりマニアックな内容になっちゃいましたがw
長々とお付き合いいただき、ありがとうございました☆
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